[45] 元気でた
投稿者:わかぼん (34歳/女性/兵庫県明石市/専業主婦)


幼稚園へ行くようになった娘と、二人で田んぼのあぜ道を歩いていた。
ちょうど、その日、私は嫌なことがあった。
すごく落ち込んで、もう何もかも嫌になりながら娘と歩いていた。
「おー かわいいのー」
急に声がして振り返ると、田んぼの中の泥だらけのおじさんが
「おかあさんにそっくりじゃのー
可愛い子やのー 髪もすごく綺麗じゃ」 と微笑んで声をかけてくれた。
なんだか、すごく嬉しくて急に元気が出た。
その後家に帰り、娘とニコニコしながらプリンを食べた。

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[44] 「Re.Re.Re.」
投稿者:レイ君 (17歳/男性/石川県金沢市/学生)


遠くに住んでいる父方の祖父のことを、小さい頃から「頭のいい人」と聞いていた。
教師だった祖父は、定年後もパソコンなどの新しいことを、いつでも勉強していたらしく、なるほど聡明な人だったみたいだ。
そんな祖父が八十歳の時、癌になって入院した。
最初は軽い程度のもので入退院を繰り返していたが、いろんな場所に何度も発症している内に、寝たきりになってしまった。
そんな祖父に、父は病院に特別な許可を得て、一つの携帯電話を渡した。
祖父はその動けない身体で、黙々とあの分厚い説明書を読んでいたそうだ。
後で父に聞いた話だけど、病室で携帯を持つ祖父は、密閉されていながら外部と一点だけ繋がっている胎児みたいだったらしい。

そして、ある日の授業中に突然、
「レイ君。じいちゃんだよ。元気にしてるか?」
というメールが僕の携帯にやってきたのだ。
僕は驚きながら、「入院してるんじゃないですか?」というメールを送った 。
少し時間を置いて、メールは返ってきた。
何か検査でもあるのだろうか、時々遅れることはあっても、絶対に途切れず確実に返ってきた。
そうして、僕と祖父のメールは日常化していった。
お正月にする、緊張と遠慮だらけの短い電話しか繋がりがない僕と祖父は、互いに知らないことばっかりだった。
好きな食べ物や、趣味、今までのこと。とにかく知らないことだらけだった 。
でもそのやりとりの中で、僕はとんでもないことに気が付いた。
僕は、祖父の名前を知らなかったのだ。
そもそも僕はいろんなことに無頓着で、近くの町の名前も知らないことがあったけど、祖父の名前を今まで知ろうともしなかったことに、胸がぎゅっと痛んだ。

それと別にやましいことなど何もなかったけど、何故かこのメールは父にも誰にも内緒ということになっていた。
当時は特に理由なんて考えなかったけど、祖父も僕も、メールをしているのが何となく気恥ずかしかったのかも知れない。
そうして、そのやりとりも三ヶ月を超えた頃。
祖父はすっかり携帯を使いこなし、顔文字や絵文字もたくさん使っていた。
元々、お茶目な人だったのだ。メールはいつも楽しくて軽快だった。

そんなある日、昼休みに携帯を開いた時、祖父から来たメールには、
「携帯を、持ってよかった」
という一言だけが書かれていた。
いつもの取っつき易い内容とは違っていたので、すぐに返信できなかった。
そうしている間に電池は切れてしまった。
充電器も持っていなくて、僕は仕方なく携帯をリュックにしまった。

そして家に帰った時、母さんが辛そうな顔をしていた。
僕の鈍い勘は、そこになってようやく嫌な予感を感じ取った。
祖父は、亡くなっていた。
話を聞くと、祖父が亡くなったのはあのメールを打ってから三時間くらい後のことらしい。
僕は、震えて壊れてしまいそうな気持ちで、携帯電話のメールボックスを開いた。
一番上には、やはりあのメールがあった。

――――――これは、祖父の遺言だったんだ。

もし今から自分が死んでしまうとしたら、どんな言葉を遺そうとするか、全く想像できない。でも祖父にとっては、この一言だったのだ。
僕とメールが出来てよかったなんていう、そんな一言だったんだ。

僕はメールに添付ファイルがないか、何かないか、必死になって探していた 。
でも、そんなものは影も形もなかった。
どこまでもあの一言だけ―――。
そう思って携帯を閉じようとした時、題名の欄に気が付いた。
見てみれば題名の欄には、返信を意味する「Re」が、それはたくさん並んでい た。
本文よりもずっとずっと長い、Re.の大群。
数えるまでもなく、明らかに本文よりも長かった。
でも、決して無駄や無意味なんかじゃないと思った。
それは間違いなく、祖父の生きていた大切な証だった。

「それで、お葬式だけど、どうしても無理なら……」
祖父の住んでいる所は、やっぱり遠い。
母さんはあんまり成績のよくない僕の、期末テストを心配しているようだ。
でも僕は、「準備しよう」と言って、その心配を断った。

返信できなかったメールの代わりに、会いに行こうと決めていたから。

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ユーザーからのコメント
○「携帯を、持ってよかった」この一言で泣いてしまいました。お孫さんとメールのやり取りがどんなに嬉しかったかと思うと余計に涙が出ました。(by 蒼依)

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[43] 父と子
投稿者:フィリップ・まろ (49歳/男性/三重県鈴鹿市/会社員)


息子が大学生となって住み馴れたこの街を出て、京都に移り住むことになった。我が家から下宿までは車で3時間半。この3月、引越しの段取りを整える為、僕は会社が休みの度に、国道1号線を往復した。自家用車は軽自動車。引越し荷物を3度に分けて運ばざるを得なかった。
全ての家財道具と本人を送り届け、大学生協から取り寄せたベッドを組み、テレビやパソコンの配線を済ませた。無事に電波を受信したテレビには春の高校野球の模様が映し出されていた。僕ら親子は押し黙ったまま、しばらくぼんやりと高校野球を眺めていた。
そして不意に僕は30年前を思い出した。
場所は同じく京都。僕が大学生となって京都で下宿生活を始めたあの日。
当時の僕は、独立心旺盛というか、無鉄砲というか、一人で下宿先を決め、勝手に引越しの算段をして、実家をぷいと飛び出した。
僕が下宿で散らばった荷物をとりあえず片付けられた頃、父が姉とともに電車でやってきた。古ボケた白黒テレビには高校野球の模様が中継されていた。何も話すことはなかった。しばらく3人は押し黙ったまま高校野球を眺めていた。僕は父に「もう帰れよ!」と言った。あの時、僕はこれから始まる一人暮らしに、期待なんか軽く飲み込んでしまうほど大きな不安を感じていたのだ。だから父や姉がそばにいてくれる事に甘えたくなかったのだ。姉は「わざわざ出てきたのにそんな言い方しなくても」と言った。僕はもう一度「さっさと帰れよ!」と語気を荒げた。父は静かに立ち上がると何も言わずに姉を促して部屋を出て行った。
父の寂しげな後姿を忘れられない。でもあの時の僕にはああ言わざるを得なかった。弱かったから。
さて、父親である僕は、息子を『独立』というレールにどうにか乗せてあげられたことにある種の達成感と寂しさを感じながら、立ち上がった。テレビではランナーを背負ったピッチャーがセットポジションに入っていた。
僕は「じゃあな。一人暮らし、ガンバレよ」と言い残して部屋を出た。僕の背中もちょっと寂しげに息子の目には映っただろうか。
30年前のあの日を思い出しながら、僕は、息子もこの日のことを30年経っても覚えているのだろうか、と思った。
それから、僕は8年前に他界した父に「あの時はほんとうにごめんなさい」と心のなかで詫びながら、車のキーをまわした。

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ユーザーからのコメント
○春の高校野球には、こんな胸キュンの思い出の連鎖があったんだ!暖かく弱いゆえの、つれない言葉…親というものは、こんな風にして大事な子供から卒業していくんだ。(by とこ)

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[42] 母の愛
投稿者:ぴぽ (31歳/女性/石川県金沢市/パート・アルバイト)


私の母はキャリアウーマン。物心ついた時から家にいた記憶がなく、父よりもどんどん出世して、定年まで4年となった今でも新しい仕事をこなす仕事人間です。そんな母だから、私はどちらかというと「できる人と」して尊敬してきました。先日なんとなく将来の話になって、冗談まじりに「私のほうが早死にするかもね〜」と言うと、血相を変えて「何バカなこと言うの!あんたに先死なれたらお母さん生きていけないよ!」と怒鳴られました。私はその反応にびっくりしたのと同時に、母の愛を思い知らされたような気がしました。ああ、私は愛されていたんだと。これからは母として、あこがれの先輩として尊敬します!

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[41] 父
投稿者:むすめ (23歳/女性/石川県小松市/会社員)


一昨年のちょうど今頃、父がガンの治療する為に入院することになりました。しばらくして治療でモルヒネを打ち出したら幻覚が見えたり訳の分からないこと言ったり体力が落ちたりしてその頃から私はそんな父を見るのが辛くて病院にはあまり行かなくなっていました。父の病状は珍しい症例でお医者さんもよくわからない感じでガンはいろんなとこに転移していて52才と若かったので進行が早く手のほどこしようがなかったのでガンの治療はやめて痛みとかを抑えるだけの治療になりました。しばらくしてお医者さんから様態がいつ急変するか分からないし明日かもしれんし一ヶ月後かもしれないしなんとも言えないし覚悟しといてくださいと言われました。私は父がこんな早くに死んでしまうなんて考えたこともなかったので何も考えられずただただ泣くだけでした。
一度だけ父が家に帰ることができたのですが、その金沢から小松に帰るまでに鶴来の方通って帰りたいと言い出しました。その道は父が学生時代に毎日通った道だったらしくて、もしかしたら父ももう長くはないと分かっていてもう通ることはないかもしれないと思い通りたかったのかと思うと辛くてしかたありません。
そして入院してからわすが7ヶ月に父は亡くなりました。私は仕事中にその知らせを受け、会社から病院に行くまでの間自分が昔父なんておらんかったらいいのにとか死んでしまえばいいんにと思っとったし自分せいで死んだんや神様許してください父を生き返らしてくださいと号泣しながら運転していたのを今でも覚えています。
父の葬儀の時に、入院する半年前からお医者さんから入院しんなんと言われてたけど、父は、仕事せんなんしムリやと断っていたことを初めて聞きました。自分の事より家族の事を一番に考えてくれていた事が嬉しくて涙がとまらなく今まで親孝行らしい事も1つもできなくて父をウザイとしか思っていなかった自分が恥ずかしくてもっと優しくして入院中もいっぱい会いに行って話をすればよかったと反省しました。父がなくなって1年4ヶ月経ちましたが私は今でも自分の携帯の電話帳に残っている父の携帯の番号を消さないでいます。これからもずっと永遠にこの番号を消すことはありません。
今の私の夢はバージンロードを父の写真を持って2人で歩くことです。これが今の私にできる最高の親孝行だと思っています。

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ユーザーからのコメント
○感動して泣けました!!この先、幸せになってほしいです。(by 蒼依)

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